大正9年10月、池田ハギ様が姉・池田ハエ様からの手紙を教行寺に持参しました。手紙には「私が母や妹と離れ、遠く尼崎にて女工となって働いているのは、一つには父の墓を建てること、二つには、昔の人は報謝のために我が身を捨てて尽くしたと永代経のご法話で聞きました。私は報謝のために働き、その工賃で前住様の御影を申し受けたいばかりです。何卒よろしくお願い致します」とあり、金六十円が添えてありました。
このお志により、前住様御影のお掛軸(興正寺第28世本常上人ご絵像)が荘厳されました。
その年11月、鹿児島別院の報恩講に、本山から慎徳院御連枝様(ご門主のご兄弟)と橘正憲参務が来院されました。その折、住職がこのお話を紹介すると、御連枝様は「我が派のみでなく真宗全体の名誉である」と、涙を流され手紙をご覧になりました。このお話は、新聞各紙にも掲載され讃えられました。
同じく大正9年12月、教行寺の報恩講の初夜の後、住職のもとを17~18歳の5人の娘さんが訪れ「おハエさんは女工となって御影を寄付されました。幸いに、今ちょうど道路工事が行われています。私たちはそこで人夫として働いてその賃金を寄付し、夜は有志の方々に寄付をお願いに回ります。そのお金でぜひとも聖徳太子様と七高僧様の御影をお申し受けください」と話されました。
娘さんたちはその言葉通り、寒風の中働き、夜は有縁の方々の家を回って喜捨を募り、聖徳太子御影、七高僧御影のお掛軸が荘厳されました。
創建当時、本堂は建ったものの、満足に仏具をそろえることはできませんでした。
ある方は亡き人の永代経として、ある方は仏さまへのご恩報謝として寄進を寄せられ、少しずつお荘厳が整えられました。
本堂も、ご本尊も、お仏具も、今日までただ伝わったのではなく、多くの人々の篤い志と、いのちがけのご縁によって、私たちに届けられました。仏法に遇い得ていることの尊さが、いっそう感じられます。