ご本尊について
か く れ 念 仏
薩摩の地に浄土真宗(一向宗)が伝わったのは室町時代中期ごろとされています。門信徒は増え続け、ある意味で権力者を脅かす勢力となり、薩摩藩を治めていた島津氏は、一向宗を禁止し弾圧していきました。それでも門信徒たちは、密かに講(信仰者による地域ごとの集まり)を結成し、隠れて「南無阿弥陀仏」のお念仏の教えを護り続けました。これがいわゆる「かくれ念仏」です。
知覧の地においては、燈明講、龍谷講、焼香講、西方講など(本願寺派)、三村講、最勝講、細布講など(大谷派)が組織され、熱心に聴聞が続けられていました。
一向宗弾圧の理由は諸説あります。阿弥陀仏の前ではすべてのものが平等であると説く教えが、厳しい身分制度により民衆を治めていた薩摩藩にとって都合が悪かったという説や、加賀(石川県)の一向宗門徒が結束して加賀守護・富樫政親を滅ぼしたことで、一向宗は危険な集団であると考えられたからだという説などがあります。いずれにせよ、日本の歴史でも他に類をみない薩摩藩における一向宗への弾圧は、約300年もの間行われました。一向宗の門徒であるとわかれば、拷問や流罪など数々の重刑に処せられました。それでもなお、門信徒たちはひそかに個人で、または講をつくり信仰を続け、さらには一時的に海上や藩外に出て信仰するなど、かくれながら念仏を相続していったのです。
廃 仏 毀 釈
江戸幕府を倒し近代国家を目指した明治新政府は、天皇崇拝精神を基盤とした神道国教政策を推進するため、慶応4年(1868)3月13日に「神仏分離令」を発令しました。それを始まりとして国内では「廃仏毀釈(仏教弾圧)」が断行されていきました。薩摩における廃仏毀釈は過酷なもので、薩摩内1616のすべての寺院が廃寺となり、2966名の僧侶が還俗させられました。 経典や仏教の書物はすべて焼かれ、仏像は破壊されました。
念 仏 解 禁
明治9年9月5日、ついに薩摩に「信教自由の令」が布達され、念仏禁制が解かれました。
本山興正寺第二十七世本寂上人は、幾多の苦難に耐え続けた薩摩の地に正しい教えを伝えるため、明治9年10月8日、自ら薩摩開教へと出発されたのです。
教 行 寺 の 黒 こ げ 本 尊
知覧には開教以前、「細布講」という講(浄土真宗を信仰する人々の集まり)がありました。
「細布講」という名称は、講員が毎年細布を大幅様(阿弥陀如来の絵像の掛軸)に布施することから名づけられたといいます。別名、木綿上げともいい、長年、女人講の女性たちが夜な夜な番役の家に集まり法話を聞きながら木綿を紡ぎ、その布をお供えしていました。一向宗禁制の中、門徒たちが夜ひそかに集って法座をもつことを、当時の女性の毎夜の仕事である木綿紡ぎを装い隠したのが始まりといわれます。織り上げた木綿は講頭や僧侶にも布施されていました。
当地 浮辺の朝隈次右エ門も熱心な講員のひとりでした。次右エ門は代々受け継がれてきた秘蔵のご本尊を守っていましたが、廃仏毀釈の際、取り締まりの役人にご本尊を発見され、留守中に知覧の麓に持ち去られてしまいました。次右エ門は命をかけて取り戻すことを決意します。
麓では、さまざまなお寺やご門徒から取り上げられた経典や仏具等がうず高く積まれ、焼かれている最中でした。よく見ると見覚えのある木像のご本尊がくすぶっています。次右エ門は、監視の目を盗んでご本尊を拾い上げ、自宅とは反対の小田代峠に向かって走りました。そして、既に背中は黒こげとなり、おみ足、後光、蓮台も焼けてしまったご本尊を三本松の根元に埋め、自らは大隅の地へ落ちのびて「木こり」として世を忍びました。次右エ門は念仏解禁後に浮辺に帰り、埋めてあったご本尊を掘り出して再び篤く信仰しました。
このご本尊は「黒こげ本尊」と呼ばれ、のちに教行寺のご本尊となりました。焼けこげた箇所は修復されておりますが、室町時代の作であり、かつては知覧町麓にあった寺院のご本尊であったとも伝えられています。
「黒こげ本尊」は、かくれ念仏を伝える貴重な法物であるとともに、私たちのご先祖が決して信仰を捨てなかった証でもあります。