教行寺について

教行寺のはじまり

明治9年に鹿児島の地で信教の自由が認められて以後、  お念仏のみ教えをひろめるために、ただちに開教がすすめられました。なかでも、京都・本山興正寺第二十七世本寂上人は、自ら薩摩開教へ出発されます。以後、京都から多くの僧侶が布教にやってきました。 開基住職・早川教雄もその一人でした。

教雄が初めて京都から鹿児島へ来たのは明治30年のことです。当時は、陸路なら1か月、船では4日から7日の道のりであったといわれています。

僧侶たちは県内各地をまわり、献身的に布教に努めました。

開基住職 早川教雄

大正3年、開聞町や頴娃町などで布教にあたっていた教雄は、知覧町・浮辺の地で、朝隈次右エ門をはじめ、熱心に信仰に生きる人々に出会い、お寺を建立してほしいと依頼されました。

教雄はこの地に留まり、寺院を設立することを決意します。近くの空家を仮本堂として説教所がひらかれました。

本堂に先がけ建立された鐘楼(昭和3年)

たくさんのご門徒から土地や資金の提供を受け、昭和6年9月、ついに本堂が完成します。

それでも資金が不足し、屋根瓦を葺くことができませんでした。

教行寺上棟式 施工前田組 棟梁池田秋美氏 昭和6年

 三 経 塚

三経塚と開基住職・早川教雄  昭和12年

本堂は完成しましたが、工事費が不足し、屋根瓦のない状態でした。

住職の教雄は、三部経の26709字の御文にあやかり、1人5銭ずつの寄進を願うことを思いたちます。

教雄は26709枚の鉄製の小板を造り、お経の御文を1枚に1字ずつ書いては合掌三礼して、1年がかりで悲願を達成しました。

屋根瓦が葺かれたのは、本堂完成から2年後の昭和8年10月のことでした。

20人もの僧侶が3日間かけて千部経(阿弥陀経1千巻)をお勤めし、この板を埋めて塚が建てられました。

完成した本堂

待望のお寺が完成し、教行寺はご門徒、地域の方々の集う場所となりました。

教行寺は、お念仏のみ教えを大切にまもり、伝えてくださったご門徒の皆さんと、ともに歩んできたお寺です。

お念仏のみ教えを大切に護り、伝えていくという設立当初からのねがいは、二代・早川榮雄 

三代・早川教榮と受け継がれてまいりました。

現在は、四代住職 早川紀蓉が法務をつとめております。